心に響く聖書の言葉

十戒・第三戒   礼拝音声ファイル


出エジプト20章7節  
「主の御名をみだりに唱えてはならない」
1.戒めの目的

 神様は第1戒によって誰を礼拝すべきか、つまり礼拝の対象者を示され、第2戒では信仰者がどのように礼拝すべきか、その礼拝方法を教えられました。第3戒では、信仰者がどのような態度、心構えで礼拝すべきかを教えています。創造主を礼拝しようとする者は、精一杯の誠実さ、畏敬、謙遜さ、そして真実を持って礼拝すべきであり、軽んじる態度で礼拝者となってはなりません。この戒めの目的は、創造主が御自分の御名の威厳を、被造物である人間の軽々しい態度によって汚されることなく、神聖に保たれるためだと言えるでしょう。
詩篇148:13 「彼らに【主】の名をほめたたえさせよ。主の御名だけがあがめられ、その威光は地と天の上にあるからだ。」

2.主の御名を語ることを禁止していない。

 もともと神の御名は、ヘブル語の子音4文字であらわされていました。(英訳ではYHWH)神聖四字(テトラグラマトンΤετραγραμματον ギリシャ語で「四つの文字」の意)とも呼ばれています。しかし、イスラエル人は歴史の中で、「みだりに唱えてはならない」という戒めを厳格に守るために、聖書朗読の時にこの言葉が書いてある部分にさしかかると、それを発音しないようにしました。そのため本来の発音がどうであったか誰も分からなくなってしまいました。レビ24:16では「【主】の御名を冒涜する者は必ず殺されなければならない。全会衆は必ずその者に石を投げて殺さなければならない。在留異国人でも、この国に生まれた者でも、御名を冒涜するなら、殺される。」とあるため、御名を発音することを恐れたからです。

 ユダヤ教の解説書であるタルムードによれば、主の御名は、大祭司によって年に一度、大贖罪日に神殿において十回だけ声高く唱えられ、誰もその声を耳にしてはならないことになっていました。そこで後年になって神聖四字を「アドナイ」と読み替えるようになりました。エホバという言葉は、近代になって神聖四字にアドナイの母音をくっつけて便宜的に読んだものです。今日ではヘブル語文法上の規則から、「ヤーウェ、ヤハウェ」が本来の発音であったと考えられています。しかし、第三戒では御名を唱えることが禁止されているのではなく、正しくない態度で神の御名を唱えることを戒めたのであり、正しい心で尊厳と敬意を払い、御名を唱えることは創造主に喜ばれることなのです。イエス様がパリサイ人や律法学者たちに厳しい言葉を告げられたのは、彼らの信仰の態度が間違っていたからであり、第三戒が与えられた目的と合致しています。

マタイ23:27 わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは白く塗った墓のようなものです。墓はその外側は美しく見えても、内側は、死人の骨や、あらゆる汚れたものがいっぱいです。
23:28 そのように、おまえたちも外側は人に正しく見えても、内側は偽善と不法でいっぱいです。


3.主の御名は特別な意味を持つ

 聖書の多くの箇所で「御名」には特別な意味があることを示しています。
申命記 12:5 ただあなたがたの神、【主】がご自分の住まいとして御名を置くために、あなたがたの全部族のうちから選ぶ場所を尋ねて、そこへ行かなければならない。
Tサムエル 12:22 まことに【主】は、ご自分の偉大な御名のために、ご自分の民を捨て去らない。【主】はあえて、あなたがたをご自分の民とされるからだ。
イザヤ 12:4 その日、あなたがたは言う。「主に感謝せよ。その御名を呼び求めよ。そのみわざを、国々の民の中に知らせよ。御名があがめられていることを語り告げよ。
マタイ 6:9 だから、こう祈りなさい。『天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。 
 名前はその人をあらわし、時には権威を持たせることがあります。国王がおふれを出すときに、その命令文のあとに王の名を記すなら、その文書は権威あるものとなります。日本では名前が彫られている実印を大切にします。実印を押す時にそれはその人の意志によって契約をしたことを証明するからです。また、野球のスター選手のサインが入っているだけでバットやグローブに高い値段がつきます。有名人の名前が書いてあるというだけで価値のないものが高価になるのです。そうであるなら創造主の御名にはどれほど価値があり、偉大でしょうか。私たちは主の御名を畏れ敬い、純粋な心を持って御名を唱えるべきであり、汚してはなりません。欧米ではイエスの御名(Jesus Christ)が冒涜的な言葉として用いられていることはなんと悲しいことでしょう。

4.教会にはイエスの御名が与えられている

 新約聖書ではイエスの御名に特別な権威を持たせています。
ヨハネ3:18 御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。
ヨハネ 20:31 しかし、これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである。
使徒 4:12 この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人に与えられていないからです。」
使徒15:26 このバルナバとパウロは、私たちの主イエス・キリストの御名のために、いのちを投げ出した人たちです。

 ではイエス・キリストの御名は父なる神の御名に取って代わったのでしょうか?・・聖書の答えは、取って代わったのではなく、イエス・キリストは父なる神から権威を与えられているのです。
ヨハネ 17:2 それは子が、あなたからいただいたすべての者に、永遠のいのちを与えるため、あなたは、すべての人を支配する権威を子にお与えになったからです。
ピリピ 2:9 それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。
 父なる神様のご計画に従って、イエス・キリストの御名によって私たちは救いをいただき、バプテスマを受け、キリストの御名の民として祝福を受け継ぐことが約束されているのです。

 「クリスチャン」という言葉は初代教会時代に未信者たちから悪意をもって呼ばれた言葉であり、「キリストに属している人間、キリストに組みしている人」という意味です。クリスチャンと呼ばれるのは悪意からでしたが、それは正しい呼ばれ方でした。クリスチャンはキリストのもの、御名の民だからです。


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