心に響く聖書の言葉

モーセの十戒の意義  礼拝音声ファイル


 モーセの十戒は、旧約聖書の出エジプト記20章1−17節に記されています。短くまとめるなら次のようになります。
第1戒 わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。
第2戒 偶像を造ってはならない
第3戒 主の御名を、みだりに唱えてはならない。
第4戒 安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。
第5戒 あなたの父と母を敬え。
第6戒 殺してはならない。
第7戒 姦淫してはならない。
第8戒 盗んではならない。
第9戒 偽りの証言をしてはならない。
第10戒 あなたの隣人の家を欲しがってはならない。


 十戒は、シナイ山に於いて、神様がモーセを通してイスラエル人に与えられた戒律です。それは人間が作成した法律ではなく、神が作成された法律です。旧約聖書の律法にはさらに細かい戒律や祭りの規定、ささげものの規定、食べ物の規定などがありますが、十戒はそのすべての基本となっており、現在でも十戒は多くの国々の法律の基礎となっています。十戒が与えられた目的、その意義を三つのポイントにまとめました。


1.エジプトの偶像習慣からの脱却のため

 イスラエル人はエジプトに430年間(BC19〜BC15世紀滞在していたと聖書は記しています。(出エジプト12: 40) 約30年で世代が変わるとするなら14世代の間ということになります。イスラエル人がエジプトに移り住んだ当初、ヨセフが生きている間はエジプトの王、パロに優遇されていましたが、次第に彼らはパロの奴隷となり、イスラエル人の生活は虐げられていきました。
 古代エジプトは多神教で、太陽神ラーを根底として、アメン神、オシリス、イシス、アヌビスなど数多くの神々が崇拝されていました。守り神としてコブラや牛、ライオン、ワニなどの姿が用いられました。日本と同じように何でも「神」にしてしまう国でした。イスラエル人も長いエジプト滞在でその影響を受け、エジプトの偶像習慣に慣れ親しみ、偶像の神々を礼拝する人たちが増えていきました。
(後にイスラエル人がエジプトを脱出した際、、モーセが十戒を授かっている間でさえ彼らが金の子牛を造り拝んでいたことは、イスラエルが如何に偶像の影響を受けていたかを物語っています。)
 それゆえ、神様は十戒のはじめに

第1戒 わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。
第2戒 偶像を造ってはならない

 と命じられました。神は唯一であることを教え、その唯一の神を礼拝すべきであると教えられたのです。

2.イスラエルをご自分の宝とするため

 神様はイスラエルの民を選ばれ、祝福されました。それはアブラハムとの約束のゆえです。
出エジプト19:5 今、もしあなたがたが、まことにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはすべての国々の民の中にあって、わたしの宝となる。全世界はわたしのものであるから。
19:6 あなたがたはわたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。


 この約束のゆえにアブラハムの子孫であるイスラエルは、神様にとって特別な民族となりました。誰でも愛する人が成功するのを喜びものです。反対に、愛する人が道を踏み外し、堕落するなら悲しみます。神様にとってイスラエルは愛する国民、宝の民ですから、イスラエルが祝福の道を歩み、喜びおどる姿を見たいと願われています。そのために神様はイスラエルに十戒を与えられました。彼らが神の選民として正しい歩みをし、他の異邦人のように愚かな歩みをしないために十戒は与えられました。

第3戒 主の御名を、みだりに唱えてはならない。
第4戒 安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。


 これらの戒めは、自分勝手な礼拝ではなく、神が喜ばれる秩序を持って礼拝すべきであることを教えています。このことは教会に集うクリスチャンにも適応できることです。信仰を持っていればどんな礼拝のやり方でも良いのではありません。神様が喜ばれる礼拝の仕方があるのです。信仰を持っていれば教会はどうでも良いのではありません。信仰があれば聖書教理などどうでも良いのではありません。御言葉によって教えられ、正しい真理に立ち、心からの祈りと賛美をささげる礼拝・・それを神様は喜ばれます。

第5戒 あなたの父と母を敬え。
第6戒 殺してはならない。
第7戒 姦淫してはならない。


 これらは今から約3500年前の時代にあって、人として最低限守っていかなければならない法律でした。当時は力ある者が支配し、暴力がものをいう時代でした。その様な時代にあって、神様に創造された人間としての尊厳を保つために必要な戒めでした。

第8戒 盗んではならない。
第9戒 あなたの隣人に対し、偽りの証言をしてはならない。
第10戒 あなたの隣人の家を欲しがってはならない。


 これらは、力によって支配する時代にあって、自分の欲望に負けないように教えます。そして、「落穂拾い」の規定と同じように、愛を持って弱者を思いやる律法だと言えるでしょう。

 このように十戒は、神様が望まれる正しい生き方を教える法律でした。それはちょうどシートベルトの規制のようです。車に乗るときにはシートベルトを装着することが義務付けられています。それは安全のために設けられた規定です。シートベルトは私たちを縛り付けるのですが、それは私たちのいのちを守るためです。十戒も同じように人の身体のいのちと、霊的ないのちを守るために与えられたのです。神様がイスラエルに十戒を与えられたことは、彼らにとって大きな恵みであり、喜び、誇りでありました。
(現在の日本の憲法はアメリカの憲法が基本にあります。そのアメリカの憲法の基本は聖書の十戒です。憲法があることによって秩序ある社会が維持され、人間の尊厳が保たれます。それは人のいのちが守られるためにあるのです。)


3.罪を示し、キリストへ導く

 十戒が与えられた三つ目の意義は、新約聖書を読まなければ理解できないことでした。律法の目的は私たちをキリストに導くと言う目的のために与えられました。
ガラテヤ 3:24 こうして、律法は私たちをキリストへ導くための私たちの養育係となりました。私たちが信仰によって義と認められるためなのです。
 では、どうして律法が私たちをキリストに導くのでしょうか?・・・律法を守ろうとするときに人はそのすべてを守ることが出来ないことを知ります。律法によって「私は罪びとである」ことを知るのです。それで自分の罪が赦されること、自分の罪を贖ってくださるお方が必要だと認めるのです。それは救い主を神様が遣わしてくださるという希望となりました。ですから律法の目的は「キリストの救いに導くこと」だったと教えているのです。

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モーセの十戒の学びから何を得るのか?

 それでは現代においてモーセの十戒を学ぶときに、何を得ることが出来るでしょうか?
@神の聖さと、その御心を知る。
 十戒には神の義が示されています。神がいかに聖く、義を愛されるおかたであるかを教えています。また、神は罪を犯した人間を必ず裁かれるかたであることを示します。十戒はそれらを教えることにより、私たち人間が神に造られたものとしてどう歩むべきかを教えています。

A神の深い恵みと、真実な愛を知る。
 神が『
わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。』と語られるとき、そこには神が私たちを愛しておられることが前提となっています。律法には
「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、【主】を愛しなさい。」申命記 6:5  と命じられています。それは神様が最大の愛を持って私たちを愛しておられるから、そう命じられるのです。また、『殺してはならない』と命じられるとき、神がいかに人間のいのちを大切なものとされているかを知ります。その神の愛を知るときに、私たちは強いられてではなく、喜びを持って神様に仕えていくことができます。

B自分自身を知る。

ローマ 7:14 私たちは、律法が霊的なものであることを知っています。しかし、私は罪ある人間であり、売られて罪の下にある者です。
 律法が要求していることは、単に外面的(行ない)な従順だけではなく、心から神に従うという内面的(霊的)な従順をも求めています。その戒めを聞くたびに私たちは自分自身の行いと心を探られるのです。神の義に到底達することができない醜さ、肉の弱さを示され、罪びとである自分を知るのです。

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