心に響く聖書の言葉

「神が死なれた」という説教




1.「神が死なれた」

 聖書メッセージを聞いていた時、説教者が次のように話されました。

「神であるキリストが、あなたの罪のために十字架に架かり、身代わりとなって死んでくださいました!」
―― これは教会で語られる通常の福音メッセージでしょう。私も牧師としておそらく何度か同じように説教したことがあると思います。しかし、よく考えるならこれほど理に合わない話はないのではないでしょうか。

神があなたの罪のために死なれた」――つまり「神が死なれた」と教えているのです。

 おそらくクリスチャンではない方が聞かれたなら、「神が死なれたってどういうこと?」「神なら死ぬはずないじゃないか!」と疑問を持たれることでしょう。

 これは「三位一体の神」という教義の上に成り立つ教えです。「神は唯一ですが、父なる神、子なる神キリスト、聖霊なる神という三つの位格を持たれるお方です」という教えです。それで「神であるキリストが死なれた」となるのです。
 しかし、この教えが理性的な人々に通じるとは思いません。「神が死なれたとはどういうことか?聖書は本当にそんなことを教えているのか?」と説明を求められるでしょう。そこでどうしても三位一体の教義について説明しなければなりません。神の存在さえ信じていない人たちに、三位一体の教義を説明しても理解してもらえるはずはありません。

2.聖書の教え

 では、聖書のどこに「神であるキリストが死なれた」と書かれているでしょうか?――実はどこにも書かれてはいません。聖書にあるのは、「キリストが死なれた」または「神のひとり子が死なれた」という教えです。

ローマ5:8 しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。

ローマ1:2〜4 ──この福音は、神がご自分の預言者たちを通して、聖書にあらかじめ約束されたもので、御子に関するものです。御子は、肉によればダビデの子孫から生まれ、聖なる霊によれば、死者の中からの復活により、力ある神の子として公に示された方、私たちの主イエス・キリストです。

Tヨハネ 4:9 神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちにいのちを得させてくださいました。それによって神の愛が私たちに示されたのです。

 聖書中、もっとも有名な聖句も次のように教えています。

ヨハネ 3:16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

 上述の聖書箇所では、神とキリストははっきり区別されています。そして聖書中、どこを探しても「神であるキリスト」という文言を見つけることは出来ません。ただ、それに近い教えなら次の箇所が挙げられます。

ピリピ2:6 キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、
2:7 ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。人としての姿をもって現れ、
2:8 自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。
2:9 それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名を与えられました。

コロサイ1:13 御父は、私たちを暗闇の力から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。
1:14 この御子にあって、私たちは、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです。
1:15 御子は、見えない神のかたちであり、すべての造られたものより先に生まれた方です。

ヨハネ1:1 初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。
ヨハネ1:14 ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。

 このヨハネによる福音書冒頭の箇所では、キリスト=ことば=神、という解釈が成り立ちますが、反論者は「冠詞のあるなしの違いがある」と説明したり、「ヨハネの記述は抽象的だ」としてキリストの神性を認めません。

 唯一、ヨハネによる福音書1章18節だけが、「ひとり子の神」と明示しています。

ヨハネ1:18 いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。

 しかしこの箇所をよく調べてみると、ギリシャ語写本によって「:セオス」が入っている写本(nestle-aland系列)と入っていない写本(Textus Receptus系列)があるため確定的ではありません。



 このように聖書を注意深く読んでいくと、「キリストは神である」と明示している箇所はなく、イエス=人の子=キリスト(救い主)=神のひとり子、と教えるにとどまっているのです。使徒の働きに記されている使徒ペテロや使徒パウロの説教でも、神とキリストの区別ははっきりしています。

使徒2:36 ですから、イスラエルの全家は、このことをはっきりと知らなければなりません。神が今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのです。

4:10 皆さんも、またイスラエルのすべての民も、知っていただきたい。この人が治ってあなたがたの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけ、神が死者の中からよみがえらせたナザレ人イエス・キリストの名によることです。

13:23 神は約束にしたがって、このダビデの子孫から、イスラエルに救い主イエスを送ってくださいました。

 聖書にあるメッセージは常に、「イエスはキリスト(救い主)である」なのです。

3.説教者

 したがって、説教者は聖書のメッセージを伝えようと決意するなら、「イエスが救い主である」ことを宣べ伝えるべきであり、「イエスが神である」ことを伝えるのではありません。

 私は聖書の教えとして三位一体の教義を信じていますが、それは聖書を深く研究していくときに到達する真理だと思います。それは歴史の中で多くの神学者たちが議論を重ねて到達した教理でもあります。したがって、三位一体の教えを強調しすぎると、「神が死なれた」という教えになり、それは聖書のメッセージを混乱させ、調和の無い教えとなってしまうのです。説教者は使徒たちが伝えたメッセージを伝えていくべきです。


使徒5:41 使徒たちは、御名のために辱められるに値する者とされたことを喜びながら、最高法院から出て行った。
5:42 そして毎日、宮や家々でイエスがキリストであると教え、宣べ伝えることをやめなかった。