心に響く聖書の言葉

十戒・第十戒  


出エジプト記20章17節
「隣人の家を欲しがってはならない」

「あなたの隣人の家を欲しがってはならない。すなわち隣人の妻、あるいは、その男奴隷、女奴隷、牛、ろば、すべてあなたの隣人のものを、欲しがってはならない。」

 今の時代に「欲しがってはならない」という言葉は、とても守りきれない現実離れした律法のように思えます。おそらくそれはモーセの時代の人々にとっても同じであったでしょう。なぜなら欲のない人間はいないからです。神様は十戒の最後にこの戒めを加えられました。そこには神の深い知恵が隠されています。

1.字義通りの意味

 まず、この十番目の戒めの字義通りの意味を考えましょう。「隣人の家を欲しがってはならない。――すべてあなたの隣人のものを、欲しがってはならない。」 これは隣人が持っているものを自分のものにしたいという欲望、つまり隣人のものを奪いたい、盗みたいという気を起こしてはならないということです。「私も隣人と同じように、結婚したい、家を建てたい。」と思うのは罪ではありません。友人が新車を買ったから自分も買いたいと思うのは問題ありません。ここで戒められているのは、隣人が所有しているものを奪い取り、自分のものにしたいという悪い思いです。そこには隣人を落とし入れようとする醜い欲望があります。

 旧約聖書時代では、多くの物を所有することは罪ではなく、それは神様の祝福でした。神様の祝福によって素晴らしい配偶者、子どもが与えられ、富が与えられ、奴隷、家畜が与えられたのです。しかし、隣人に与えられたそれらの祝福を奪いたいという思いは、当然神様に対する反逆なのです。従がって十戒はその醜い思いを戒めています。

 旧約聖書の出来事では、この罪が明らかに犯されています。族長のヤコブは兄エサウに与えられるはずの祝福を奪ってしまいました。十戒に違反した行為でした。またダビデ王は自分の兵隊ウリヤの美しい妻を欲しがり、彼を殺害し、自分の妻としてしまいました。まさにこの十戒の戒めを破ってしまった大きな罪でした。(このダビデの罪に関しては、他の「殺してはならない」「姦淫してはならない」にも違反しています。)


2.重要な意味

 第十戒の重要な点は、外に現れる行為だけでなく、私たちの思いにまで戒めが及んでいることです。第1の戒めから第5の戒めまでは神と神の権威に対する戒めとするなら、第6の戒めから第10の戒めまでは隣人に対する戒めです。その内、第6から第9の戒めまでは、実際に外に現れる行為を戒めているのですが、この10番目の戒めだけは、私たちの内なる思いを戒めています。つまりこの10番目の戒めを与えることにより、神は私たちの愚かな行為だけではなく、愚かな思いまでを戒め、私たちの生活と心を守ろうとされていることを見いだすのです。これは重要なことです。なぜなら愚かな行為は、愚かな思いから生れるからです。犯罪を犯さないためには、心に邪心を持たないことです。心が綺麗なら、行いも正しいのです。

 私たちが犯罪を犯すのは、火事が起こるのに似ています。はじめは小さな火種から始まります。最初のうちはまだくすぶっています。しかしある瞬間にそれは音を立てて燃え広がります。そうなるとそれを消すのは困難になります。すべてのものを焼く尽くすまでその炎は消えることがないのです。
 私たちは心の中に「欲」という火種を持っています。その欲がくすぶり始め、誘惑という機会を捉えるとぱっと燃え広がるのです。そしてその罪は手に負えなくなり、その人の生涯を焼き尽くし、灰にし、みじめなものにしてしまうのです。

ヤコブ1:14 人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです。
1:15 欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます。


 火事を起こさないためには、初期消火に限ります。くすぶっているうちに踏みつけ、水をかけるのです。心の中の欲が燃え広がる前に消し去ることが大切です。心が清く、欲がなければ問題は起こりませんが、人間はそうではありません。欲があり、傲慢、陰険です。ですから律法は私たちに「罪を犯すな、心を清くせよ、欲に支配されるな」と命じています。しかし律法はその方法と力を与えてはくれませんでした。律法は人々を罪人と定め、人をさばく道具となりました。イスラエルの人々は律法を振りかざし、罪を犯した人たちをさばく道具として律法を用いました。それは大きな誤りです。いままで学んできたように、律法は神の義を示し、私たちを正しく導こうとするものです。そのことをイエス・キリストは救い主として来られて、はっきり人々に示されたのです。

3.キリストによって示された意味

マタイ22:35 そして、彼らのうちのひとりの律法の専門家が、イエスをためそうとして、尋ねた。
22:36 「先生。律法の中で、たいせつな戒めはどれですか。」
22:37 そこで、イエスは彼に言われた。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』
22:38 これがたいせつな第一の戒めです。
22:39 『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。
22:40 律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。」

 律法を正しく理解するなら、イエス様が教えられて通り、すべての戒めはこの二つに要約されます。モーセの十戒がまさにそうでしょう。1-5戒は神を愛するなら当然守られます。6-10戒は隣人を愛することによって当然守られます。私たちが神を愛し、人を愛するなら、律法の要求をすべて満たすことが出来ます。律法の要求は愛のうちに完全に全うされるのです。ですから、モーセの十戒が与えられた究極的な目的は、人間が創造者である神を心から愛し、そして隣人を愛して神様の栄光を現すことなのです。

 しかし、先ほど述べたように、律法は私たちに「罪を犯すな、心を清くせよ、欲に支配されるな」と命じますが、律法はその方法や原動力を与えてはくれませんでした。あるとしたら、さばきの恐れからでした。十戒が与えられたのはシナイ山で、山の上に雷といなずまと密雲があり、シナイ山は全山が煙っていました。その煙は、かまどの煙のように立ち上り、全山が激しく震え、宿営の中の民はみな震え上がったと書いてあります。(出19章) 古い契約は震えと恐れの中で与えられたのです。つまり罪を抑制するのは恐れだったのです。
 では新約聖書はなんと言っているでしょうか? 


4.十字架の意味

1ヨハネ4:9 神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。
4:10 私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。
4:11 愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです。


 イエス・キリストの十字架によって、神の愛がはっきりと示されました。イエス・キリストがご自身のいのちを犠牲にしてまで私たちの罪の代償を支払ってくださいました。あなたが受けなければならない罪の刑罰を身代わりに受けて苦しまれ、死なれたのです。神の愛がここに示されており、神の愛を私たちはいただいているのです。ですから私たちは神を愛する理由と、人を愛するその原動力をいただいているのです。クリスチャンの皆さんは、この神様の愛に応えて、神を愛し、人を愛してください。二心があってはいけません。賛美とのろいの言葉を同じ口から出してはいけません。神の愛に感謝しつつ、その御心に従って歩んでいきましょう。

ヘブル12:18 あなたがたは、手でさわれる山、燃える火、黒雲、暗やみ、あらし、
12:19 ラッパの響き、ことばのとどろきに近づいているのではありません。このとどろきは、これを聞いた者たちが、それ以上一言も加えてもらいたくないと願ったものです。
12:20 彼らは、「たとい、獣でも、山に触れるものは石で打ち殺されなければならない」というその命令に耐えることができなかったのです。
12:21 また、その光景があまり恐ろしかったので、モーセは、「私は恐れて、震える」と言いました。
12:22 しかし、あなたがたは、シオンの山、生ける神の都、天にあるエルサレム、無数の御使いたちの大祝会に近づいているのです。
12:23 また、天に登録されている長子たちの教会、万民の審判者である神、全うされた義人たちの霊、
12:24 さらに、新しい契約の仲介者イエス、それに、アベルの血よりもすぐれたことを語る注ぎかけの血に近づいています。


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