心に響く聖書の言葉

3b.山上の垂訓について


 ディスペンセーショナリストは「山上の垂訓」を教会のために与えられた教訓として解釈しません。なぜなら、山上の垂訓は旧約聖書の律法のもとにあったユダヤ人に語られた教えであるという立場をとるからです。

 イエス様が語られた時、集っていた群衆はユダヤ人でした。イエス様の伝道は常にイスラエル人に対するものでした。それは「イスラエルの失われた羊たち」を探して救い出されるためでした。御自身が明言しておられる通り、イエス様は異邦人のために遣わされてはいません。
マタイ15章24〜27節
15:24 しかし、イエスは答えて、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊以外のところには遣わされていません」と言われた。
15:25 しかし、その女は来て、イエスの前にひれ伏して、「主よ。私をお助けください」と言った。
15:26 すると、イエスは答えて、「子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのはよくないことです」と言われた。
15:27 しかし、女は言った。「主よ。そのとおりです。ただ、小犬でも主人の食卓から落ちるパンくずはいただきます。」

 ここに登場する女は異邦人であり、イエス様はこの女にご自身に与えられた使命について語られました。神様のご計画は常に「イスラエル」と「異邦人」の区別がされています。ただ、この箇所はのちに異邦人に与えられる恵みについて教えています。それが「パンくず」です。のちにイエス・キリストの福音の祝福が異邦人にも及ぶからです。
 ディスペンセーションでは、イエス様の教えは第一義としてイスラエルに対して語られたと言う立場を保ちつつ、教会に適応、応用することができるとします。この事は重要です。まず語られている対象をしっかり把握しなければなりません。

 では山上の垂訓について考察しましょう。
マタイ5章27〜30、42節
5:27 『姦淫してはならない』と言われたのを、あなたがたは聞いています。
5:28 しかし、わたしはあなたがたに言います。だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです。
5:29 もし、右の目が、あなたをつまずかせるなら、えぐり出して、捨ててしまいなさい。からだの一部を失っても、からだ全体ゲヘナに投げ込まれるよりは、よいからです。
5:30 もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切って、捨ててしまいなさい。からだの一部を失っても、からだ全体ゲヘナに落ちるよりは、よいからです。
5:42 求める者には与え、借りようとする者は断らないようにしなさい。

 もしも、山上の垂訓をそのまま「教会に語られた教え」と受け取るなら、クリスチャンはみな、片方の目をえぐりとり、片手を切り落とす必要に迫られてしまいます。また、すべてのクリスチャンサラリーマンはすべてのお金を分け与えるので、破産してしまうでしょう。勿論そのように受け取る人はいないでしょう。
 では何のためにイエス様は過激とも思える教えを山上で語られたのでしょうか?
 @律法を誇り、律法を人を裁くための道具として用いていた祭司長、律法学者、パリサイ人達に対する警鐘でした。彼らは姦淫を犯しさえしなければ義である、施しさえしていれば善であるとし、律法の行いを守りさえすれば神の義が与えられると信じていました。しかし、イエス様は彼らの考え違いを指摘し、行いがその人を義とするのではないことを教えられました。
 A指導者たちの教えや言い伝えを神のことばであると教えられていたイスラエルの群衆に向かって、律法の完全さと人間の罪深さを知らせるためでした。引き下げられていた律法の基準をイエス様は正しい基準に戻されました。
 B人間が神の前で自分の義を立てようとするなら、すべての律法を守らなければならないと教え、自分の義を立てるなら完全になりなさいと語られました。
マタイ 5:48 だから、あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい。
 しかし、完全な人間は一人もいません。つまり、律法の目的はイスラエルの人々が罪人であることを認め、悔い改めて神様のあわれみと救いを待ち望むべきことを教えるのです。律法は私たちをキリストに導くための養育係であったとパウロは教えています。
 ガラテヤ 3:24 こうして、律法は私たちをキリストへ導くための私たちの養育係となりました。私たちが信仰によって義と認められるためなのです。
 従って、山上の垂訓は律法のもとで語られ、律法のもとに育ったイスラエル人だからこそ必要な教えであったという事ができます。
 しかし、山上の垂訓はクリスチャンにとって意味がないとするのではありません。山上の垂訓には神様の義と御心で満ち溢れています。「出来ないことは行わない、私は異邦人だから関係がない」というのではなく、神様の御心を知り、御心に沿った生活を目指して歩むために山上の垂訓を私たちの生活に適用していくのです。

「主の祈り」について

マタイ6章9〜13節
6:9 だから、こう祈りなさい。『天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。
6:10 御国が来ますように。みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。
6:11 私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。
6:12 私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。
6:13 私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。』〔国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。アーメン。

 山上の垂訓は第一義的にはイスラエルに与えられた教えである、と理解するので、ディスペンセーショナリストは『主の祈り』を教会に与えられた祈りだとは解釈しません。毎聖日の礼拝時に「主の祈り」を朗読されている教会も多いと思いますが、ディスペンセーション主義の立場では『主の祈り』を祈りません。
 その理由は、
@『主の祈り』を繰り返し唱えることが主の御心ではないから
 同じ山上の垂訓の中で、繰り返し同じ言葉で祈るなとイエス様が教えています。
マタイ6:7 また、祈るとき、異邦人のように同じことばを、ただくり返してはいけません。彼らはことば数が多ければ聞かれると思っているのです。
 繰り返し方が違うと反論される方もおられるでしょうが、同じ言葉を繰り返すことに変わりありません。

A『主の祈り』は異邦人クリスチャンにとって模範とならない祈りだから
 すでに説明したように、「主の祈り」もまた律法のもとにあるイスラエルに対して語られたものです。ですから、新約の恵みの時代に生きる私たちの祈りではありません。しかし、イエス様が「主の祈り」を教えられた理由には目を向け、そこから学ぶことが出来ます。
 ・偽善者のように人に見られたくて(認められ、尊敬されるため)祈るのではない。
 ・言葉数を増やすために何度も同じ祈りをしない。
 ・長い祈りをすれば聞かれるのではない。
 
 教会時代に生きる異邦人クリスチャンには別の祈り方があります。もしも教会時代における「模範の祈り」を作成するとしたら、次のような祈りになるでしょう。
『天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。
御子イエス・キリストを遣わし、十字架で私達の罪を贖ってくださり感謝します。
イエス様が私たちを迎えに来てくださる日を待ち望みます。
福音が全世界に宣べ伝えられ、罪人が救われますように。
私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。
教会と隣人を愛し、御心を行なえるように私たちを聖霊に満たしてください。
イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン』


 この祈りは一例ですが、教会時代の祈りに欠かせない点を含んでいます。
・ユダヤ人にとっては「ユダヤ人の王」が支配する王国(御国)を待ち望みますが、教会はイエス様の再臨(空中携挙)を待ち望みます。
・教会時代の祈りには感謝が含まれるはずです。
・「みこころが天でおこなわれるように地でも行われますように」とは地上での王の支配を背景にしています。教会の祈りは福音が全世界に宣べ伝えられることです。
・日ごとの糧を祈り求めることは、旧約時代も新約時代も変わりません。そこには肉の糧と同時に、霊的な糧としての「御言葉」も含みます。
・負い目のある人を赦したから私の負い目を赦して下さいというのは、教会時代の祈りではありません。イエス様の十字架により罪赦されているのだから、私たちも隣人の罪を赦し、新しい戒めとして与えられている「互いに愛し合う」ことを求め、イエス様が教会を愛されたように教会を愛し、聖霊によって歩むことこそクリスチャンの歩みです。
ヨハネ 13:34 あなたがたに新しい戒めを与えましょう。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。
・「試みに会わせないで、悪からお救いください」はもっともなことと考えますが、試練の必要性も新約聖書では記されています。また、悪に対して立ち向かう力は御言葉と聖霊によって与えられます。
ヤコブ 1:2 私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。
Tペテロ 1:7 あなたがたの信仰の試練は、火で精錬されつつなお朽ちて行く金よりも尊く、イエス・キリストの現れのときに称賛と光栄と栄誉になることがわかります。
・キリスト者の祈りは「イエス・キリストの御名」によって祈ります。
ヨハネ14:13 またわたしは、あなたがたがわたしの名によって求めることは何でも、それをしましょう。父が子によって栄光をお受けになるためです。
14:14 あなたがたが、わたしの名によって何かをわたしに求めるなら、わたしはそれをしましょう。


 しかし、先述したように、どれほどまとまった「模範の祈り」を作成したとしても、それを繰り返し祈ることは主の御心ではありません。ただし、クリスチャンになったばかりの人に対して、「祈るときにはこんな言葉で祈ったら良いですよ」と、「祈りの模範」として教えることは大きな助けとなるはずです。そして、それこそイエス様が『主の祈り』をイスラエルの民に教えられた理由です。
次へ   神様のディスペンセーションTOPへ